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今治

教育

2022.01.08

野球通じ強い心育む

844号6ページ

名将が語る 人間形成 とは

北条高校 澤田監督が勇退



松山商業を日本一に導くなど愛媛の高校野球界きっての名将、澤田勝彦監督が昨年夏、北条高校の監督を惜しまれながら勇退した。40年以上の指導者人生はいつも「目標は全国制覇、目的は人間形成」だった。選手の人間力を高め育てる指導の神髄、心の在り方、人生観を聞いた。

 



澤田監督は松山商業高から駒澤大学へ進学。野球に打ち込み、大学卒業後は信用金庫に内定を受けるも、同高の野球部部長からの強い要望で、1980年から同高のコーチに就任し1986年、全国準優勝。1988年から監督に就任。1996年、母校を27年ぶりの全国制覇に導いた。2009年に退任し、2010年から北条高校へ。昨年6月27日、夏の選手権大会を最後に勇退した。





 松山商業野球部時代は「鬼の澤田」と呼ばれ、厳しい指導で有名だった。全国制覇が、本気の目標だった。だからこそ真剣で、選手には分け隔てなかった。監督の中には控え選手は無視したり、また周りを気にしてパフォーマンスする人もいた。澤田監督は誰でも関係なく叱り飛ばした。

 「私は良いものは良い、悪いものは悪い。選手は敏感」と一切、私情も入れずブレなかった。「信頼関係を築くため純粋に野球に専念できる環境をつくる。ミスしても選手のせいにせず私の責任。選手を一番に考えることだ」。

 澤田監督が選手に強く言い続けたことがある。「素直で謙虚に野球を続け友と絆をつくれ」。素直とは、無理難題を言われても「はい」と言えるか。謙虚とは、結果が出ても天狗にならず成長できるか。「苦難があっても仲間と共に戦い続け乗り越えた時、また苦難が大きいほど、仲間との絆は強く深まる」。

 自身がそうだった。全国制覇する前、3度全国で初戦敗退。重圧とがけっぷちの澤田監督を支えたのは学生時代、共に苦悩した仲間たちだった。

 「金の切れ目が縁の切れ目。利害関係は続かん。人生の苦しい時、友の存在は大きい」と澤田監督。そして続けることの意義を唱えた。「必死になって続けることで景色が変わる。困難の先に大輪の花が咲く」。

 そんな澤田監督には忘れられない一球がある。1996年夏の甲子園、熊本工業との決勝戦。「奇跡のバックホーム」と語り継がれる伝説の試合。延長10回裏、1死満塁の窮地。右翼手、矢野勝嗣さんのサヨナラ走者を刺した好送球。「矢野は授業中も寝ない。練習も真面目、体格もいいが本番に弱い。次はと信じて試合に起用するがミスをする、その繰り返しだった」。

 矢野さんは市内の実家から通っていたが、寮に入りたいと澤田監督に直訴。「野球に没頭したい。家に帰ったら家族に甘える」と。「断った。次の日また来たが断った。3回繰り返し、私は受け入れた」。自分で考え決断するよう選手に伝えたが、具体的に動く者は少なかった。「矢野は覚悟を決めた。その確固たる心構えが大きな舞台で運を引き寄せた。強くなるには個々の自立心、闘志が不可欠だ」。

 40年以上の指導の中、選手の変化も感じた澤田監督。北条高校では野球部のトイレに「みんなから好かれる人よりみんなを好きになれる人の方が幸せ」と書いた紙を貼った。「人に好かれようとする選手が増えた。お利口が多い。人からの評価が気になり、嫌われたくないから本音は言わない」。

 自分をよく見せようと結局、自分のことしか考えていない選手が増えてきた。「違う。評価は人がする。自分のために自分があり人のために生きていない。自分が人を好きになり、まず人を受け入れることだ」。

 監督人生を振り返り「内気で内向的で無口だった私が、監督をして人生が変わった。辞めても多くの卒業生が私の顔を見に来てくれる。監督冥利に尽きる」と今後は愛媛県の野球界の発展のため、さらに尽力していく予定。一生野球と共に生きる澤田監督は「教え子が一番の財産。私は幸せや」と子どものように笑う。


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